Ongoing Collective DIARY

9月19日の日記
2019年9月21日

今はもう21日だけど、19日の日記を書く(ごめんなさい)。

今、ひたすら文献を読んでいる。
前回の日記で読んでいた長谷川町蔵・大和田俊之著『文化系のためのヒップホップ入門』で知った、
ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニア著 松本昇・清水菜穂監訳『シグニファイイング・モンキー -もの騙る猿る/アフロ・アメリカン文学批評理論』は、一読では難しすぎて理解しきれなかった。ここからさらに引用されている文献も読んでいけば、少しは理解が広がるのか?
でも、理解できない部分はちょっと脇に置いておいても、次の箇所にちょっとでも触れてしまっただけで、すごくハッとさせられて、これまで無自覚だったかもしれない文学の読み方が変わってくるのかな?と期待している。ただ、自由間接話法と直接話法、語り手の声と主人公の声、標準英語と黒人の方言、これはもう実際にこの作品を読んでみて体験してみるしかないなあ。

「自由間接話法をアフロ・アメリカンの語りに導入したのは、ハーストンであった。私が証明したいと思っていることがだが、ハーストンが、主人公の自意識における成長を自由間接話法を用いて描きつつ、アフロ・アメリカンの修辞上の戯れのさまざまな伝統的な様式を表現できるようになったのは、この革新によるのである。興味深いことに、ハーストンの語りの戦略は、テクストのふたつの極と、一見相反する語りの様式とを混ぜ合わせることに依拠している。相反する様式とは、少なくとも標準英語の語法によって始まる語り手による解説と、引用符や黒人の言葉づかいによって常に前景化される、登場人物の会話である。しかし、主人公の自意識が目覚めると、テクストは、彼女の成長を表象するために自由間接話法を用いるばかりでなく、語り手による解説の声が、黒人の登場人物たちの言葉づかいを帯びるようになる。そのため、いくつかの節においては、語り手の声と主人公の声を識別することが非常に困難になってしまう。別の言い方をすれば、ハーストンの言う非常に「装飾的な」自由間接話法を使うことでーそれは、語り手による解説と直接話法のあいだにある、第三の、あるいは仲介する言語と考えられるものだがー『彼らの目は神を見ていた』は、標準英語と黒人の方言、つまり小説の冒頭で言語上の対比的要素として機能しているふたつの声のあいだに存在する緊張を、解きほぐすのである。」
            p.286 「第5章 ゾラ・ニール・ハーストンとスピーカリー・テクスト」



本間順子

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