綺麗な部屋を散らかすためには、紙、もしくは衣類を置けるところに置いていくことだ。ゴミは見つけ次第そのままにすることを心がけなさい。手に取ったらゴミ箱へ入れなくちゃいけなくなるのだから。
大切なものは大切ではない紙の上に、どうでもいいものを中途半端に開いて、できるだけ無駄なスペースを作るように絶妙な角度で机の半分を割いて積み重ねなさい。少しずつもう半分も侵食すること。脚となるゴミ、天板となるゴミ。ものはゴミを経て素材となり、第二の役割が与えられる。テーブルの完成である。なお、足も天板もA4コピー用紙だ。とにかく紙を置くことです。届いた手紙やチラシ。領収書の類。
今日買った本も例に漏れず紙であるため、積み重ね対象だ。ただ、ゴミとは別でどこにでも置いていいというわけではない。まず数ページ読んで、先週買った本の上に置く。それが所作というものだ。その下には先々週の本。先月の本。本本本本。タイトルが目に入ることが大事なのだ。面白い本が手元にあることで勇気が湧いてくる。本を持つ喜びとは、読む可能性を持っていることだ。本を読むことと本を持つことは同じことではない。
大きい本は、反らないようにハードカバーの本の積み重なりの高さを揃えてその上に置くことを心がけなさい。
お気付きか。この部屋で、本の栞に困ることはないことに。そこへ転がっているインドカレー屋の割引券を半分に折って挟むといい。私はよくそれをする。
あの白い紙の下に何があるんだろう、と思ってめくっても、水道料金のお知らせとインドカレー屋のB6のチラシしかないのだから心配はいらない。倒れないように注意して、コップを置いてみるといい。紙束が机を水滴から守ってくれる。
この部屋を片付けるよりも引越しをする方が楽なのではないか。そう思うことも少なくない。ただゴミを捨てればいいのはわかるのだけど。それにゴミは意外とそんなにないこともわかってる。友達から「エクストリーム」と評されたこともある私たちの作業部屋。
9月には大きな荷物と作品がこの部屋に運び込まれる。展示が3つ始まっているだろう。火を放ちたい。
緑色の顔をしたジム・キャリーがやってきて、でっかいハンマーでぶっ壊してくれないだろか。
生活と芸術は不可分だけれど事務と美術は分けるべきだ。やることだけが増えて行く。本当にやるべきことが後回しになっている。これなんのためなのよ、複雑で混迷を極めたメールのやり取り!!!!!!ファック!
人に言われても思考が重たくて返事に2時間くらいかかる。しゃべる言葉ややらなきゃいけないことの優先順位が頭の中で渋滞し詰まってから、2億光年が経とうとしている。まじもー無理!!!!!!私が二倍になることでしか解決できないのがもどかしい。
私は「する」時間に重きを置きすぎて、準備や片付けを軽んじすぎている。熟考することでなく、安定でなく、混沌とした慌ただしさの中に身を置いている。反応ばかりをしていてゆっくり考えられていない。
パフォーマンスの記録はどうしたらうまくいくんだろう。私の作品記録はきっと世界最低レベルだと思う。
厳密さの方向性とドキュメンテーションの方法が噛み合っていないのだろう。
自分にできないことは人に任せればいいのだけど、その準備をする頃にはもうその作品への熱は記録とは別のところに向いていて、撮影する用の作品に作り直してしまう。
どのように記録すればいいわけ・・・みんなどうしてる?
あと、部屋は片付けたほうがいいですかね。
(Yahoo!クソ袋)
うらあやか
この人と会うのは、これが最後じゃないという感じがちゃんとする。外国で友人ができるとそう思う。だからこそ、なんとかさよならできる。(また会おう!でも、Instagramであなたが山を登ったりイカを釣ったり服を作ったりした写真を見ることができるなら一生会えなくてもいいような気もする。)とにかくお元気でね。
赤ちゃんは、後でとか明日とかがあるってことを知らないから、全部のことが最後みたいに感じているらしい。(そして赤ちゃんが明日を獲得すると、約束を交わしあう言語的、社会的な存在に変身する。)
赤ちゃんじゃないけどそういう感じ方をしているらしい友人がいて、カレンダーや新幹線が苦手な彼は、どんな風に時間や場所を捉えていたんだろうな。
わたしは遅刻癖がある。なんでかわからないけど、飛行機にすら乗り遅れてしまう。もーやだ。約束事が近づくと、楽しみにしていたことでも途端に崖っぷちみたいな気持ちになってしまう。間に合わないといけない、と思って、緊張してしまう。ていうか、これを書いてる今も遅刻してる。さらに、加筆している今すらも。走る新幹線の掴まれるところを見つけて、なんとかつかまってるけど振り落とされそう〜でも捕まってるうちは安心、みたいな感じがする。短い時間のことを考えるとほんとーに息がつまる!ほんとうに、遅刻ばかりしてすみません。わざとじゃないんだよ。。
明日に頼りきって時間を引き延ばして生きている感じも持っている。今のこの時間は今なんかではなく、昨日と10年前で構成されている。ずっと追いつけずに、昔の日記をまだ思い出しながらたまに手を入れたりしてる。そんなの日記ではないだろ!しかし楽しい。(続く)
……
練りゴムを伸ばすと、朧な感じの細かいゴムがふんわりと机に静かにほろほろと並んだり、一本に細長く粘りを持って伸びて柔らかく細くなった臨界点が自重に耐えきれずに横たわったり、バチンと一瞬強いねばりの「薄い間」をつくりそこから力強く千切れて「薄い間」はそれぞれの切れ口に律儀に丸まる、とか、まあこんな風にちぎれたりするんじゃないかな、とにかく、私の言葉で書き起こしてみるとそうだな。
これを例に、引き延ばされている時間の姿を想像する。例えば、この延び延びの時間の3つのイメージを分割したり、リニアにするのではなく、ずっとちぎれのびてを再生し続けるそれぞれの練りゴムが隙間を開けながら重なっている多層的なイメージが時間だとしたら、それを琴を弾くように時間に触ることができるのかもしれないな、とか。映画や音楽を作るときのように、わたしが今生きている「この時間」を触ることができたらどんなことが起こるのかなーとか思う。延びたものがちぎれに向かう理由は「約束」の有無だと仮定してみれば、約束があるから時間に間に合わないとということが起こる。(もっと考えたいことだから、ここにはこれ以上書けないかな。。)
ていうか、ここはどこなんだろ。飛行機の中で、ベトナムからマカオへ行く途中のこの場所の時間は今なんなんだろう。時差は一時間だけどどっちか。日が沈んだのをさっき見たのでその感じ?わたしに規則的なリズムを与える時間とはちがう時間を感じている。振られたメモリと同じ分量の時間を過ごすことがわたしには難しいけど、大きな移動をしているときだけは時間を迎えに行っている感じがする。でも、、、あーもう疲れた、思いの外長くなった。から、今日はおしまい。すみません文章がめちゃくちゃだわ。5/15 14:15
うらあやか