パスポート、政治と芸術

昨日(19日)は小川さんと飲んでて盛り上がって終電を逃し、はじめてレジデンスに泊まった。

 

五時半くらいに起きだし、家に帰ってまた寝る。昼頃起きて期限が切れたパスポートの再発行を申請しに、相模原の実家の方に行かなきゃいけない。

 

そこまで二日酔いではないけど、駅前の「くじら食堂」でラーメンを食べて、元気をだす。醤油ラーメンなので二日酔いには優しい。(ラーメン食べれるのはそこまできつくない。きつい時はまずコカコーラ、その後かけうどんを食べるしかないというのが長年の研究のファイナルアンサーだ)

 

むくんだ顔で写真とか撮りつつ、それでも結構スムーズに申請終わる。

 

久しぶりに実家に帰って、明日(21日)のオンゴーイングのイベント「政治と芸術」の参考資料になるかなと思っていた香港アーティストユニオンの人の文章を翻訳してみる。たまたま知り合った香港の作家がシェアしていて、なかなか良い文章だなと思って小川さんに提案してみたら、オンゴーイングとエクスチェンジプログラムを始めた張本人だといわれて驚いた。

 

訳してみるとかなりインテリ感のある文章で、どうかなあ、オンゴーイング向きかなあという疑問にかられつつ、結局日を跨いでしまってから訳し終える。

 

もう21日のイベント直前になってしまったけど、とりあえずここにも載せときますね。興味あったら読んでみてください。まんま「政治と芸術」が主題になっているので、共感できるかもしれない。

 

香港にいる、香港と共にあるアーティスト、アーティスト志望者、アートに触発された人への公開書簡

 

アートを作り出す人、アートを成り立たせている人へ

 

私たちは今、アートにおいて、アートと共に、アートの為に、アートとして行っていることをプロテストに参加する為に中止しなければならないような試練の渦中にいます。これは以前にも起こって、今また起こり、そしてこれからも何度も起こるでしょう。

 

互いに肘を組み合って行進するために今抱えているものを一時中断し、予定を繰り合わせるという行いは美しく、やむにやまれず、またとりわけ危機的状況においては緊急的に必要となるでしょう。私はこの手紙をそれを非難するために書いているわけではありません。全くない。私はプロテストの為にアートをないがしろにしなくてもよいという事例を作り出そうと、これを書いています。我々は両方を同時に行うことができるはずです。いやむしろそうしなければなりません。

 

私の考えはこうです。アートはプロテストのために時間と空間を作る為に停止されてはならない。私はプロテストとアートが真の意味において二分法となると考えることを拒否する。私は真の意味においてそれらが相互に排除的であるかのように、片方をもう片方よりも重要なものとして選ぶことを拒否する。軋轢は路上にある−それぞれの体に、失われてしまった体に、争点に。アートに携わる私たちへの試練はより大きくなっていくでしょう。我々はプロテストからだけでなく、アートからも必要とされています。我々はプロテストする身体になるだけでなく、しなやかで、感覚的な身体になる必要があります。描く、塗る、踊る、動く、跳ぶ、触る、笑う、口笛を吹く、夢見る、ぼんやりする、質問する、考える‥‥私たちが行ってきたこれらのことは私たちが自己規定する(rule ourselves)、その自治のあり方をより良く豊かにすることができるでしょう。

 

私たちは私たちを支配しようとしてできない者たちと向かい合っています。彼らは名付けられないものを押しつぶつすことで支配します。もしくは彼らは彼らが恐れるものを名付ける(縮減し、コントロールする)ことで押しつぶし、彼らのナルシスティックな侮蔑の対象に格下げしようとします。自らを規定するために、私たちはもっと上手くやらなければなりません。

 

支配しようとする者たちは絶えず夢想家を殺したいと望んでいます。これは人間の歴史でいつも起こってきました。彼らの不安や無意識を見通す人たち、自由な精神には境界線がないことを知っている人たちを恐れるからです。自らを規定するために、私たちはもっと上手くやらなければなりません。

 

アートは安全ではありません。独裁政府が全てのことに要求を突きつけるとき人間の根源的なものが全て安全でないのと同じように。もし自らがアートに必要とされているということを忘れさろうとしているならば、私たちは専横的な権力に人間性の根幹を破壊されようとしているのでしょう。自らを規定するために、私たちはもっと上手くやらなければなりません。

 

プロテストは異議を唱えるのたった一つの形ではありません。アートもまた、規範を減らし、異なった考えを主張することによって異議を唱えることができます。私たちは社会によって統制された日常の行動をストライキすることで、社会に浸透している専横的な権力に反抗することができます。しかし私たちはアートにおいて、アートから、アートを通して想像し、思考し、心に描きだす力をストライキすることはできない。私たちの生をストライキできないように。異議申し立てとしてのアートを維持していくために、自分たちが何者であり、自分たちの最も巧みなことを示して立ち上がるために、私たちはより強く試みなければなりません。これもまた、自由と自己決定の為の戦いです。自らを規定するために、かりそめの二分法からくる偽の選択を自らに強いてはいけません。自らをよりよく規定するために。

 

もし私たちがアートの中にある自らの存在を、もしくは私たちの能力の核であり、未来の可能性であるアートという手段を捨て去らなければならないとしたら、誰も私たちを救うことはできず、またアートを守ることはできないでしょう。アートこそが最も明らかにすることができる人間の本質、ニュアンスや複雑さ、不確定さから目を背けていけません。自らをよりよく規定するために。

 

あるアーティストの友達がジョージ・スタイナーの箴言を太平洋の向こうから送ってくれました。「ある美と慰めについてのインタビューでジョージスタイナーは1937年のソ連の作家会議について語っている。その会議では作家はスターリンに忠誠を誓うか、さもなければ逮捕されてしまう状況だった。パステルナークは沈黙を守っていたが、それでも逮捕されるかもしれなかった。最終的に、彼は立ち上がりシェイクスピアのソネットの番号を引用した。2千人の人々はそれに応えて立ち上がり、そのソネットのパステルナークによる翻訳を暗唱した。このエピソードは教えてくれる。私たちに触れることはできない、シェイクスピアを、ロシア語を、そして心から学びとったことを破壊することはできないと。」

 

ヴァーツラフ・ハヴェルの言葉もまた鳴り響いています。「社会を『上から』観察している人々はせっかちになりがちだ。かれらはすぐ現れる結果を求めている。すぐ結果を生み出さないものは愚かだと断じてしまう。彼らは年月が経ってからでないと評価できない行為、道徳的な要素によって動機づけられている行為、何も成し遂げられないリスクがある行為に共感することができないのだ。」

 

私たちの本能はこれは取る価値のあるリスクだと告げています。私たちは愚かなままでいることができる。「この極端なエネルギーのあり方、本能の統治、直感の徴用システム、それこそが芸術家のしるしであるが、それを名付けるための正しい言葉をまだ我々は手にしていない。」(ジョージスナイダー、「真の存在」)

 

このエネルギーが我々を手放しませんように、我々がこのエネルギーを手放しませんように。

 

行進の中で、ストライキの渦中で会いましょう。もっと多くの行進を、もっと多くのストライキを。

 

楊陽
2019年6月14日

#香港藝術家工會

 

翻訳:高石晃

原文はこちら。(英語あり)

立場新聞 Stand News: 一封致現正/有志從事藝術、受藝啟發的香港人以及與香港同行者的公開信

 

高石 晃