武器か花か?

有事の時に、ヒューモアが無くなることがある。方向性が無いまま、深刻になりすぎると、視野が細かくなり、やたらと他人のことが目についてしまうので、そうならならいようにした方が良い。

例えばもし自分が、「ライフ・イズ・ビューティフル」のお父さんだったら、あんな風に子どもに振る舞えるだろうか?絶対に生き延びてやる、という渇望からくる野心は、真のインテリジェンスを生む。それとは反対に、フラワー・パワー、的なヒューモアが私は好きじゃない。好きじゃない、というのは、趣味として、あまり好きできないうことを表現したいので、好きか嫌いか、などという言葉を採用した。お世話になっている方に、種を頂いたことがある。半分は直ぐに植えて、芽が出、成長した。残りの半分を、1年経った最近、植えたのだが、約50粒くらいまいて、芽が出たのが2粒、今生き残っているのが1粒(というか1つ?)だ。恥ずかしながら、種には寿命があることを知った。もう一袋、数年前にスーパーで買った種を適当に撒いてみる。こちらの方は、ほとんど全ての種たちが、みるみると芽を出して、早々と背を伸ばし始めた。私は、この風景がとても気持ち悪く感じ、芽を摘んで全部捨てた。

花とか、土とか、布とか、あるいは女性とか。有機的なものが暴力の反対である公式は間違えている。

こんなことを考えているのは、今日は花屋さんに行って花を買ったからなんだけど、植物こそ人間を奴隷化に導いた一つの種であり、人間は、その他地球上に暮らす生き物にとっては災害そのものだ。

その花屋さんには良い思い出があるし、良い人たちが働いているので、今日はそこで花を買うことに決めた。一人でいる時間が長いので、消費活動を言い訳に、誰かと会話をしようとしている今の自分の視野が、一番つまらない。