今朝は人生2回目にコーヒーをいれた。いれながらおまじないを心の中で唱えていたら、プクプク良い感じの泡が立ったので、これはすごく美味しくなる予感がする、と思った。酸味があって爽やかな味わい、ブルーボトルコーヒーの味に似ていた。
さて、今日はまだ頭がすっきりしているうちにジョークについて書きたいと思う。
昨日の夜、布団に入ってからジョークについて考えていた。明日はジョークについて書きたい、と。
私はジョークが下手である。もしかしたら私のことを真面目でちょっとスクエア、やや面白味に欠ける、と思っている人がいるかもしれないけれど、それは私がジョークが下手なせいである。
今読んでいるカズオ・イシグロの『日の名残り』という小説の主人公であるイギリス人執事が、新しい主人であるアメリカ人のジョークに対してどう返したらよいのか悩むシーンがある。びっくりして口ごもってしまうばかりで、うまいジョークを返せないのはもしかしたら職務怠慢なんじゃないかと思って、頑張ってジョークを返してみたらとんちんかんなことを言ってしまったというエピソードだ。
私にも似たようなエピソードがあって、これがいつのことだったのか、誰と話していたのかは忘れてしまったのに強烈に頭に残っていて、ときどき思い出す。
私たちは何人かのグループでおしゃべりをしていた。たぶんお酒も飲んでいた。それで、誰かが「1人ずつ順番にジョークを言い合っていこう」と言い出した。
そう、ここで思い出したのは、私たちはそのとき英語で話していた。日本人同士で話しているときにジョークを言い合おう、なんて提案はまず起こらないから、ジョークというのはそもそも英語圏の文化なのかもしれない。
ともあれ、円形に座っていた私たちは、言い出しっぺから順番に時計回りにジョークを披露していくことになった。
お酒の席とはいえなかなかの緊張感で、一気に酔いも醒めた。こんなことを思いついた言い出しっぺを心の中で恨んだ。
それぞれがジョークを言っているのだけど、こちらは何を話そうかと考えるのに忙しくて聞いている暇なんてない。順番が近づいてくるにつれて冷や汗までかいてきた。
でも、「私はジョークとか無理だから~」などと言って辞退するのも興ざめな気がする。
ついに自分の順番が回ってきた。頭は真っ白で、そのときに思い浮かんでいたのは1つの話しかなかった。意を決して、話しはじめた。
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ある夏、テレビでオリンピックの男子体操競技を見ていた。
それは個人の決勝戦だった。
つり輪や平行棒などいくつかの種目を次々にこなしていくような、いわばメドレーのような競技で、決勝戦だけあって、どの選手の演技も鮮やかだ。
あるとき、ある男性選手の顔がクローズアップで画面に映る。
その選手はこれから競技をするところで、これから本番だというのに余裕の表情で、ウインクでもしたそうな感じといえばいいのか、おおらかなナルシシズムに溢れていた。
「次はいよいよ、金メダル候補の〇〇です!」というアナウンサーの実況がイメージに重なる。
金メダル候補なのか、なるほどたしかにオーラがある、と私は思った。
選手が演技を始めた。
ひとつひとつの動きに無駄がなく、正確で、安定している。
つり輪をしているときの彼の腕の筋肉ははちきれそうなほど充満していた。
あん馬のあと、マットのうえでいくつかの宙返りを組み合わせたあと、両手を大きくあげて華麗に着地をした。
カメラは彼の顔のクローズアップを捉えた。
彼は満足の笑みを浮かべ、舌をペロッと出した。
その舌は、表面に生えている苔のせいで白かった。
高画質のハイビジョン放送のために、その苔のひとつひとつの凹凸が見えるようだった。
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私はこの話を頑張って英語で話したのだけれど、話が終わったあとの雰囲気は忘れられない。
みんながあっけにとられて、ギョッとしたような顔で私を見ている。
これが事故というものだろうか。私は、こんな話をしてごめん、私にとっては面白い話だったんだけれど、英語だからうまく伝えられなかった!と言い訳を言ってごまかした。
それ以来、自分が面白いと思うことが他の人にとっても面白いとは限らない、ということを学んだので、あえて危険を冒して面白いことを言うチャレンジを放棄してしまった。サービス精神がないのかもしれない。
面白いことを言える人を本当に尊敬するし、魅力的だなあと思う。
でも一方で、この体操選手の話は、私にとってはものすごく面白くて、何度思い出してもここに何かの真理が隠されているような気がするし、この話にはリアリティと細部について自分が興味深く思っている部分が凝縮されていると思うのだ。
MJ