2020/4/14 気持ちのよい日差しだけど、カラッとしていてそれなりに風はつめたい

この引きこもり生活、やることがなくて時間があるかというとそういうわけでもない。むしろわりと忙しい。

今日は突然洗濯機が壊れたので、濡れたまま行き場がなくなった洗濯物を担いでコインランドリーに行って、そのあといつものスーパーに1週間ぶりに買い物に行ったらものすごい人出だったのでこれはいかん、危険だ、と思って、個人営業の八百屋さんに行った。

ピンピンしている菜の花とアジの干物と手作りのさつま揚げが美味しそうだったので、それらと、あといくつか野菜を買った。

帰ってきて、それらをすべてお湯と洗剤で洗う。やりながらいつも「パラノイドだよね~」と自分で

言うのだけど、一度やりはじめたらやらないと気になってしまう。

プラスチックの表面では23日生きのこるらしいですよね、コロナウイルス。

3.11のあとも数年間かなりパラノイドだったので、たまにそのときに気をつけていたことと、今気をつけなきゃいけないことがごっちゃになる。例えば、外のベンチに座っているときにすぐそばで埃ぼこりが舞い上がるようなとき、あっ危険だと本能的に思うんだけれど、一瞬あとに、あ、それは放射能のことで今回は土ぼこりは危険じゃないんだった、とか。

防衛本能が混線している。

今だって放射能はなくなっていないんだけれど、いつのまにか慣れてしまっている。慣れの力は思ったより強力だ。

このあいだ武漢のロックダウンのあと2ヶ月ぶりに「日常生活」に戻った人の手記を読んだ。

彼は、中国の大学で教えている先生なんだけれど、オンラインの授業にも慣れてきたし、いまさら電車に乗って大学まで行かなきゃいけないのを逆に面倒に感じたり、人々が何事もなかったように以前のように暮らしはじめていることに対して違和感を感じる、と書いていた。きっとその「日常生活」にも1週間くらいで慣れてしまって、ロックダウンの日々のことを、ああそんなこともあったっけ、くらいに思う日も近いのかもしれないけれど。

「日常」ってなんなんだろう。私はこのコロナの日常に慣れていきつつある。日常と非常は同時に存在できるんだな、と今思った。

 

あ、そうそう、うちには今、ベランダカフェと名付けたスペースがある。折りたたみ椅子とコーヒーと本を持って、「ベランダカフェ行ってくるね〜」と言うと、なかなか良い気分になる。

ベランダカフェにいると、向かいのアパートの共有廊下と玄関ドアが丸見えなので、向こうの住人からしたらなんかあの人ずっとあそこに座っていて覗き見されているみたいで嫌だなあと思うかもしれないので、基本的には本に集中するようにし、たまに風景を眺める。

ヒッチコックの裏窓という映画を思い出す。

数日前そのアパートのあるお宅に、「東京電力です。新しいサービスのお知らせにきました!」と元気の良い(大)声をだす営業の人がやってきた。

私は本から目を離さずに耳をすませていた。

明るくてさっぱりした感じの中年女性の「こんなご時世だからドアは開けられないけど、ね。お互い気をつけよう!」という声が聞こえてきた。

「ありがとうございます!またよろしくお願いします!」とよく通るハキハキした声で営業の人は挨拶をして、帰っていった。

MJ