slumber 眠る まどろむ
壁 mural
rudiment 根本
simpering 作り笑い
fitness 生活する環境に対する適応度(ダーウィン)
終える top off 仕上げをする
通poignant 説
undulant 波打つ
左からの光 graven image
superstition 送信
タイトル通り、もやもやして眠れないので日記書いてます。ってなんか娘(むすめ)っぽいな。はずい。
コロナウイルスの影響で、大学の講義が、e- learningか、zoomか、メールになったのですが、私ってつくづく大学に向いてない。。かれこれ人生の大半、大学に所属している身なのですが、なーんか、むず痒いんだよな。
一方で、大学にしかない知識のアーカイブや、学べることが文字通りあるし、アーティストとしてこの保守化する世界において、こんなフーテンが、滞在許可を貰えるのも大学のおかげなのだが、その利益だけのために大学にいまーしゅ イェーイって割り切ってる訳でもないのだ。
この2年間、アカデミーにいて、成長したこともあったし、正直「は?これ明らか人種差別or非独語・英語話者に対するいじめですよね?」なんて事も死ぬほどあった。まだまだ世界は真っ白だし、ぶつかり合いが多くて、激しい世界だ。
ここに比べると武蔵美まじ天国だったな〜。
でも、大学に入って良かったと思うことは、自分で選んだものだけでは暮らして行けない所だ。ドイツ語もまず学校にいなかったら勉強しなかったし、リベラル・アーツ、ほど広くはないけど、政治のことや、脱植民地主義、哲学、解剖学など、学んだことがないものに触れることができた。思い通りに意思疎通できない悔しさも沢山あるけど、裏を返せば、また赤ちゃんのように毎日0から学べるのだ。人生は冒険!
私は、中途半端に人に近づき過ぎる。沈黙も内緒もあるけど、たまにものすごくテンパーになって、あれもできる、これもできる!ってハイになってしまうのだ。反省。
小さくても成功体験を作る。
一日3分でもそれに近づく作業をする。
事務作業を愛する。
地味な仕事をする。
アパートの隣のビルが取り壊された。近づいて見てみると、家は一つ一つの煉瓦でできていたことがわかった。
去年、日本語で直訳すると、「くり返すことは愛」という作品を作った。線を引く。粘土をこねる。字を覚えるために何度も書く。色を塗る。積み上げる。
Etel Adnan という、レバノンの作家を私は尊敬しているのだが、彼女のインタビューで、「西洋思想は手仕事と魂を切り離し、手動的な仕事を思考から切り離したけど、物を作るということ自体が、思慮と想像力で作られた果物なのです。」というようなことをEtelは発言していた。アルチザンの仕事そのものが、黙々と山を登るような、地味で寡黙な仕事の印象があるが、物を作る(produce)ことは、コンセプチュアルな行為でもあることを、Etelは示している。日本語的表現で言うと、手と脳は繋がっているということだろうか。今秋は、工房に通って、もっと深く潜れるように、手を進めたい、突っ込みたい。
無意識って基本的には見ることができない領界じゃないですか。
分からないことをなんでも無意識に押し込むんじゃねえー、無意識はゴミ箱じゃねえー!
Yet, all of myself, who may ringing from a far. Part of attached heave of pacient, I devote. Just screw be your side: radical in your eyes. Passion-compassion-asscociation-congnitification, be noted all school books. Sounds like a echo, velley of banks of the river, cut your fringe, for your blink from till now on.
それでも、遠くから鳴っているかもしれない私の全て。 待つことと耐えることは一部、それに私は、身を捧げる。 こんな風にねじ込こんでやろう——ラディカルの目撃者でありますように、情熱とあわれみと接続部分と覚え書きのち、が、教科書に書いてあった。
遠い、聞こえる、川の丘の岸の/////これからのまばたきのために前髪を切る、か。
有事の時に、ヒューモアが無くなることがある。方向性が無いまま、深刻になりすぎると、視野が細かくなり、やたらと他人のことが目についてしまうので、そうならならいようにした方が良い。
例えばもし自分が、「ライフ・イズ・ビューティフル」のお父さんだったら、あんな風に子どもに振る舞えるだろうか?絶対に生き延びてやる、という渇望からくる野心は、真のインテリジェンスを生む。それとは反対に、フラワー・パワー、的なヒューモアが私は好きじゃない。好きじゃない、というのは、趣味として、あまり好きできないうことを表現したいので、好きか嫌いか、などという言葉を採用した。お世話になっている方に、種を頂いたことがある。半分は直ぐに植えて、芽が出、成長した。残りの半分を、1年経った最近、植えたのだが、約50粒くらいまいて、芽が出たのが2粒、今生き残っているのが1粒(というか1つ?)だ。恥ずかしながら、種には寿命があることを知った。もう一袋、数年前にスーパーで買った種を適当に撒いてみる。こちらの方は、ほとんど全ての種たちが、みるみると芽を出して、早々と背を伸ばし始めた。私は、この風景がとても気持ち悪く感じ、芽を摘んで全部捨てた。
花とか、土とか、布とか、あるいは女性とか。有機的なものが暴力の反対である公式は間違えている。
こんなことを考えているのは、今日は花屋さんに行って花を買ったからなんだけど、植物こそ人間を奴隷化に導いた一つの種であり、人間は、その他地球上に暮らす生き物にとっては災害そのものだ。
その花屋さんには良い思い出があるし、良い人たちが働いているので、今日はそこで花を買うことに決めた。一人でいる時間が長いので、消費活動を言い訳に、誰かと会話をしようとしている今の自分の視野が、一番つまらない。
そういえば暫くの間、スピーカーを通して音楽を聞いていなかった。大きい音量で聴くと、音が部屋中ぐるぐる回っていて気持ちがいい。Frank Oceanの、Self Controlという曲が大好きなので何回も聴く。「国境は閉まっている」のが今の世界の、憂さの一つなので、目をつぶって、それを聴く。身体が遠くに行っている画像を五感にリクエストする。
//////私は、Sのことを安全で、絶対に私を傷つけたりしない人間だと思っていた。しかし、その正体は、S本体ではなかった。彼は、勤勉なプロテスタントに紐付けられている、安っぽい「実力が同じだから頼れる」を体現してくれる偶像。競争が好きで、デモクラティックなものを信じている。私にもそういう所があるから、たまたま同じパーカーを着ている人を街で見かけた、くらいの偶然性でしかなかった…。それが分かっただけでも十分だと思う。
その証拠に、こちらから手を離さなくても、「あちら」から、離してくれたわけだし。
自己と他者の境界は、細胞膜みたいなものだと、この間、誰かが言っていた。受け入れるものがあれば、受け入れるとして、排出したいものは、そうして取り込まないようにする。私は、31年間生きてるけど、まだ出来てるとは思えなかったし、むしろ私にとっては、潮の満ち引きみたいに、勝手にやって来たり去ったりするものだった。だから、細胞膜というアイデアは晴天の霹靂だった。ほんとに、嵐がやんで、ぱきっと快晴になるような。今日、読了した柴田元幸さんの本。氏が、翻訳を始めたのは35歳の時だったという。「境界」を細胞膜として受け入れることを始めたとしても、ちっとも遅くないと、この間31歳になった私は、身勝手な解釈をした。お腹の底から喜びが、がんがん育ってくる。私は運命を受け入れる時を待つのだ。
多田佳那子